(2009年『Something10号』掲載)
初めて「およびあそび」という言葉を知った時、そのたゆたうような語感が、私の遠い記憶をやさしく揺り起こした。
黒い池の水面に小さな蓮の花のつぼみが、白く浮き上がって見える。ぽーんぽーんと音をたてる度に、白い花はうす紫の光の筋の間をすり抜けたり、時おり暗い闇に隠れたりしながら、滑るようにゆっくり動いていた。静かな水の息づかいが聞こえている。
「ほら、しぃちゃんの手が映っているわよ」
レイコおばさんが、そっと囁いた。ピアノを驚かせてはいけないと、声をひそめているみたいだった。ぽーん、ぽぽーん、高いところを鳴らすと、水滴がきらりと光って落ちて来た。池に波紋が広がって、蓮の花は少し開いて頭を振っているように見える。ふたりで体を寄せあってクスクス笑うと、おばさんのワンピースのオレンジの風が、白い花の上にふわりと舞った。
こうして、わたしの「お指遊び(およびあそび)」は始まったのだった。まだ文字も読めず、片言で話していた頃だった。その日、家にやって来たテカテカの黒光りの巨体をしたピアノは、子供部屋の一角を占領した。本当に大きい。薄暗い奥の間にあるおばあちゃんの古い簞笥よりも、何倍も大きいと思った。しかし、蓋を開けて、茶色のビロードに総飾りのついたピアノイスによじのぼり、おそるおそる音を出してみると、思いがけずそこには美しい黒い池が広がっていて、その穏やかなまなざしが「よく来たね」と言っているようだった。
それ以来、私は毎日その池へ出かけて行った。最初黒いと思った池の水は、そのつど違った色をして、澄んでいる時もあれば深い色をしている時もあった。それだけではなく、池だと思っていた所が、森になったり野原になったりした。あらゆる花が賑やかに咲き乱れて、そこにはいつも光の粉が降り注ぎ、目を細めると、睫毛のまわりを金色の粉が軽やかに飛び回った。
しかし、「お指遊び」は徐々に音符をたたき出す練習に取って変わり、どんどん細かくなって増えてゆく音符の重みで、茶色いビロードの総飾りのついたピアノイスが擦り切れてきた頃から、私はあの池にあまり行かなくなった。そして、新しいグランドピアノが威風堂々とレッスン室を占拠した時、私はその入り口を見失ってしまった。だけど、それを捜そうとはしなかった。ただ少しずつ、池のことを忘れていった。