エレンの城で

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次に、私はシューベルトの即興曲を弾いた。パトリックは、出窓の側の椅子の高い背もたれに体をあずけて、ヒマラヤ杉を眺めながら日向ぼっこを始めている。ピアノの音が澄んできた。山が身震いして、硬い体をほぐしているような感覚が、両手にも身体にも伝わってくる。それから私は、どのくらいの時間弾き続けただろう。自分でも、何が起こっているのか分からなかった。ピアノは朗々と響きわたり、私は次から次へと弾き続ける。音が音を呼んで、懐かしい香りのする影が、幾つも行き交う。開け放たれた窓から聞こえる鳥の声は、ピアノの音と溶け合って新しい曲を紡ぎ出した。何もかもが穏やかで暖かく、何もかもが平和だった。
夕方になって、ようやく私がピアノから離れると、エレンが自転車を持って来て、農場の裏の池に泳ぎに行こうと誘ってきた。言われるままに、自転車に乗って森の方へしばらく走ると、木々に隠れるようにぽっかりと池があった。どんよりとした草色の水面に浮いた木の葉が、列をなして動いている。底にはきっと水脈があるのだろう。水に入ると、とたんに足がとどかなくなり、私はゆっくり泳ぎ出した。夕日が斜めに射してきて、指先のしぶきが光り、脚は水中で重い輪っかを描いていた。池で泳ぐなんて初めて、と思った。いや、初めてではなかったかも知れない。どうだっただろう?仰向けに水に浮かんで、空からぐるりと森の木を眺める。私の記憶は、混沌としたままだった。
ディナーには、城に滞在していたエレンの家族が集まって来た。さすがに上品な物腰のエレンの両親に、妹夫婦と兄夫婦。パトリックと私を合わせて、五組の夫婦の食事になった。夏でも夜になるとテラスはひんやりとして、パトリックの冗談は初対面の人にはあまり受けず、最初は少し固い雰囲気で食事は始まった。この家族内の事情は全然知らなかったが、妹さんは長い間病気がちで元気がないのだとか、その旦那さんは神経質でお兄さんの奥さんと折り合いが良くないということを、隣に座ったエレンが私に耳打ちをした。多分、私たちに気を遣ったのだろう。
しかし、ワインもまわってくると、まずお兄さんが「今日はピアノが聞こえてましたね」とピアノの話を切り出し、神経質な旦那さんも、実は椅子を持って来て、パトリックの居た出窓のすぐ側で聴いていたのだと白状した。場が和み、私は食事が済んでからまた弾くことを承諾した。普段、私は一滴でもお酒を飲むと、こういう場では絶対弾かないことにしていたが、この日はまだまだ弾きたかった。