エレンの城で

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私たち夫婦が、パリのベルヴィルのアパートに越して来てから四年になる。地上階の庭付きのこのアパートは、緑が多く田舎の風情もあり、そして何よりも隣人関係が円滑でとても住み心地がいい。一階の旦那のディディエはギターリストで私はピアニストなので、どちらも音を出すが、お互い迷惑がるどころか、聞こえないと心配するくらいである。奥さんのエレンは、いつも私のことを妹のように思うと言ってくれていて、気兼ねなく足りない調味料を借り合える仲である。
そのエレンがある日、「ヴァカンスには、パトリックと一緒に私のお城にいらっしゃいよ」と言った時は、よくわけが分からなかった。お城?エレンが?しかも私の、と言った?よく聞くと、彼女は由緒ある貴族の出で、このベルヴィルが気に入り二十五年住んでいるが、シャロレ地方にある一族の城の一部を数年前に相続したのだそうだ。全く飾り気のない人柄からは、彼女の素性は想像できなかったので驚いたが、パトリックは子供のように喜んで、すぐにでもお城を見たいと言い出し、私たちは夏の数日間をエレンのお城で過ごすことになったのである。
城の門前の並木を抜けると、二つの翼とその裏側の農場が一望できた。土地全体はなだらかな丘で、背後には森が取り囲むように延びている。城の大小など判断出来ないが、なかなか立派な構えである。二つの翼は時代が違うらしく、高さも様式も異なり、エレンが相続したのはそびえ立った新しい方の翼だった。古い翼と農場は姉妹兄弟で分けたという。
美しい石造りの階段を上って中に入り、通されたサロンは、二百メートル平米はあろうかという広さで、古い絹張りのソファーや椅子があちこちに無造作に置かれてあった。彫刻をほどこした暖炉の反対側には張り出した出窓があり、そこからヒマラヤ杉の大木が深緑の枝を垂れ下げているのが見えた。そして、もう一方の窓の側には、年老いたコンサートピアノが置いてあった。胴体の黒はくすみ、痩せた大きな動物が眠っているように見えた。
食堂でお茶を頂いている間も、私はさっきのピアノが気になって仕方がなかった。エレンたち夫婦とパトリックは、この城の歴史の話しに夢中になっている。私は会話の輪から抜けこっそりサロンに戻り、ピアノを近くから眺めた。